名古屋高等裁判所 平成4年(行コ)12号 判決 1997年1月30日
第一一号事件控訴人(原審第六号事件原告) 船井正義 外二名
第一一号事件被控訴人(原審第六号事件被告) 名古屋法務局豊橋支局登記官
第一二号事件控訴人(原審第三一号事件原告) 河合幸男 外一二名
第一二号事件被控訴人(原審第三一号事件被告) 名古屋法務局田原出張所登記官
主文
一 本件各控訴をいずれも棄却する。
二 控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求めた裁判
一 一二号事件について
1 同事件控訴人ら
(一) 原判決中、同事件控訴人らに関する部分を取り消す。
(二) 同事件被控訴人が、昭和四八年一二月二〇日、同事件控訴人らのした原判決別紙第一物件目録記載の各土地(以下「第一目録の各物件」という。)に係る土地滅失登記抹消登記申請を却下した決定をいずれも取り消す。
(三) 訴訟費用は、第一、二審とも同事件被控訴人の負担とする。
2 同事件被控訴人
主文と同旨
二 一一号事件について
1 同事件控訴人ら
(一) 原判決中、同事件控訴人らに関する部分を取り消す。
(二) 同事件被控訴人が、昭和四三年九月二七日、原判決別紙第二物件目録記載の各土地(以下「第二目録の各物件」という。)についてした土地滅失登記処分をいずれも取り消す。
(三) 訴訟費用は、第一、二審とも同事件被控訴人の負担とする。
2 同事件被控訴人
主文と同旨
第二当事者の主張
当事者双方の主張は、次のとおり付加訂正するほか、原判決の「事実及び理由」欄第二に記載のとおりであるから、これを引用する。
一 原判決四枚目表四行目から同五枚目表初行までを次のように改める。
「 本件は、第一目録及び第二目録の各物件(以下、合わせて「本件係争地」という。)について、被控訴人らが「年月日不詳海没」としてした第二目録の各物件の昭和四三年九月二七日付土地滅失登記(以下「本件滅失登記」という。)処分及び第一目録の各物件の昭和四四年九月二四日付滅失登記に対する昭和四八年一二月二〇日付抹消登記申請却下決定(以下両者を合わせて「本件処分」という。)に対し、控訴人らにおいてその取消しを求めた事件である。」
二 同五枚目表九行目及び同六枚目表九行目「六号事件原告ら」を「一一号事件控訴人ら(訴訟承継人である控訴人船井正義については、その被相続人)」にそれぞれ改め、同五枚目表末行「、さらに」から同裏三行目「登記を」まで、及び同六枚目裏七行目から同七枚目表九行目までを削る。
三 同七枚目裏三行目「本件係争地は」から同五行目「一部である。」までを次のように改める。「本件係争地は、この田原湾の沿岸に位置し、本件処分のころ、満潮時には海面下に没し(ただし、本件係争地のうち、第一目録の各物件及び第二目録七の物件については、本件処分時にも、その全部が海面下に没するか否かは争いがある。)、干潮時には砂泥質の地表を海面上に現す干潟(以下「本件干潟」という。)の一部であったものである。」
四 同八枚目裏七行目「明治七年七月二日」を「明治初期」に改め、同一一行目「同月四日、」、同九枚目裏五行目「、埋め立てられないまま」、同六、七行目「及び同伊藤省三」、同一〇枚目裏三、四行目「、更に一〇号事件原告の被相続人伊藤類二らとの間では同四四年二月八日に」、同六、七行目「及び第九二号証の一」、同八行目『及び「本件第三協定書」』をそれぞれ削る。
五 同一一枚目表五行目の次に行を変えて、次の摘示を加える。
「二 自白とその撤回ついて
1 控訴人ら
(一) 控訴人らは、原審第四五回口頭弁論期日において、「本件係争地は別件(最高裁判所昭和五五年(行ツ)第一四七号土地滅失登記処分取消請求上告事件)で最高裁判所が判断したとおりの海面下の土地であることは争わない。」と自白したが、右陳述は、本件係争地が、第二目録一ないし六の各物件を除き、いずれも大正あるいは昭和の一時期まで陸地として存在していたのであって、第一目録の各物件及び第二目録七の物件に関する限り、客観的事実と異なり、真実に反し、かつ、錯誤に基づきなされたものであるから、控訴人らは、原審の右陳述(ただし、第二目録一ないし六記載の物件を除く。)を撤回する。(当審第一回又は第三回口頭弁論期日)
(二) また、本件処分時においても、第一目録の各物件の一部及び第二目録七の物件の一部は、満潮時に最高高潮面を超える陸地であったから、前記自白がこれと矛盾するものであれば、これを右(一)同様に撤回する。(当審第二五回口頭弁論期日)
(三) さらに、控訴人らは、原審において、第一目録の各物件のみならず第二目録の各物件についても、堀田が地券の下付を受けたのは明治七年七月四日であることを認める旨陳述したが、第二目録記載の各物件につき、堀田は、明治七年七月四日ではなく、明治六年に既に地券の交付を受けていた事実が判明した。したがって、原審における右陳述(ただし、第一目録の各物件を除く。)は真実に反し、かつ、錯誤に基づくものであるから、これを撤回する。(当審第三回口頭弁論期日)
2 被控訴人ら
(一) 前記別件における最高裁判所の判断は、当該係争地は古来より最高高潮面下の土地すなわち海のままの状態であって海没地ではないというものであったから、本件係争地も右と同じ状況であることを争わない旨の控訴人らの原審における陳述は、本件係争地は海没地ではなく、古来より海のままの状態であるとする被控訴人らの主張事実を認める趣旨のものであって、自白にほかならない。
控訴人らは右1(一)(二)で自白の撤回を主張するが、被控訴人らはこれに異議がある。したがって、右自白の撤回は許されない。
(二) また、右1(一)(二)は、控訴人らの故意又は重大なる過失により時機に遅れて提出された攻撃防御方法とも解され、訴訟の完結を遅延させるものであるから、民事訴訟法一三九条により却下されるべきである。
特に、控訴人らの右1(二)の主張は、控訴審口頭弁論終結の時点である第二五回口頭弁論期日において突然なされたものであるが、仮に、本件処分時、第一目録の各物件の一部及び第二目録七の物件の一部が最高高潮面を超える陸地であったにもかかわらず、海没による滅失登記をした登記官の処分が違法であるとの主張を含むものであるのであれば、控訴人らの故意又は重大な過失により時機に遅れた攻撃防御方法であるから、なおさら却下さるべきである。
したがって、本件係争地は、第二目録一ないし六の物件はもちろん、その他の物件についても、古来より海のままの状態であることは、当事者間に争いのない事実である。
(三) 第二目録の各物件の地券の下付につき、控訴人らが根拠とする甲第一八四号証の二(捕魚採藻來由取調書のうち海面區劃漁業採藻場箇所限り調)には、「三河國渥美郡大崎村地先海面」と記載されているだけであり、これをもって右土地が第二目録の各物件であるとはいえない。甲第二五号証、第二七号証、第二八号証の一、二、乙第七七号証、第七八号証からすると、第二目録の各物件についても、地券の下付がなされたのは、明治七年七月四日というべきである。したがって、控訴人らの錯誤による自白の撤回は失当である。」
六 同一一枚目表六行目「二」を「三」に改め、同一五枚目表初行から同裏八行目まで、同一七枚目裏初行「及び一〇号事件原告ら」を削る。
七 同一九枚目裏一〇行目末尾に「(第二目録の各物件の地券の下付の時期に関する自白は真実に反するものか否か)。」を加え、同二二枚目表末行の次に行を変えて次の摘示を加え、同裏一行目の「ハ」を「ニ」に改める。
「ハ 前記(二 自白とその撤回について)のとおり、第二目録の各物件について、堀田は、明治七年七月四日ではなく、明治六年に既に地券の交付を受けていたものである。したがって、被控訴人らの後記(2)イの主張のとおりであるとしても、第二目録の各物件は、明治四年大蔵省達により堀田が払下を受けたもので、結局控訴人らがその所有権を取得していることになる。」
八 同二三枚目裏四、五行目「本件地券の下付がされた明治七年七月四日当時は」を「本件地券は、堀田が明治七年七月二日に下付を願い出て、同月四日に下付を受けたものであるところ、その当時は」に改める。
九 同一九枚目裏八行目の次に改行のうえ次のとおり加え、同九行目の「(二)」を「(三)」と改め、同二四枚目裏八行目から同二五枚目表四行目までを削る。
「(二) 第一目録の各物件及び第二目録七の物件は、大正あるいは昭和の一時期まで陸地であったか否か(控訴人らの自白は真実に反するものか否か)、また、これが肯定される場合、右各物件は、海没後本件処分当時においても、人による支配利用が可能であり、かつ、他の海面と区別して認識が可能な状態であったか否か。
(1) 控訴人らの主張
<1> 第一目録の各物件について
イ 大正六年一二月一〇日、新田の開発、魚類養殖販売を目的とする田原養魚株式会社(本店・渥美群田原町大字田原字東大浜五七番地の二)が設立された。右設立に関し、同月二五日付けの新朝報(甲第二二六号証)は、「田原養魚会社」と題し、渥美群田原町伊藤又吉らの発起にて、田原町大字浦の海面約三〇町歩に工事を施し、養魚及び新田経営をなすべくその筋に願い出、創立事務所を田原町に設立した旨の記事を掲載して報道した。その後、大正八年一二月八日、田原養魚株式会社の商号が土地開拓株式会社に変更されるとともに、同月一四日、これとは別に新たに、魚類養殖販売その他これに関連する一切の事業を目的とする田原養魚株式会社(本店・渥美群田原町大字吉胡字吉胡下四三番地の三。以下「新田原養魚株式会社」という。)が設立された。そして、大正七年一月八日から大正一〇年八月三〇日までの間に、土地開拓株式会社(田原養魚株式会社)は、分筆前の第一目録の各物件を含む一帯の土地を取得し、これらを分筆等したうえ、第一目録の各物件を新田原養魚株式会社に譲渡し、所有権移転登記手続をした。なお、大日本帝国陸地測量部大正七年測図(甲第一九六号証)には、既に丸一新田の形状が明確に記載されているところ、公図(甲第二三九号証の一ないし三)や田原町土地宝典(甲第二三八号証の一ないし五)等によれば、第一目録の各物件は丸一新田内に位置しているものである。
これらの事実からすれば、大正六年以降、伊藤又吉らの発起により、当時の法令である明治二三年勅令第二七六号官有地取扱規則(甲第二四四号証の一)及び同年内務省訓令第三六号官ニ属スル公有水面埋立ノ出願免許方(甲第二四四号証の二)に基づき、丸一新田の埋立工事が開始され、土地開拓株式会社や新田原養魚株式会社が右埋立区域の土地所有権を取得してその旨の登記を経た大正一〇年八月三〇日には、右埋立ては成功のうちに完了し、丸一新田内に存する第一目録の各物件は陸地になったことが明らかである。
ロ その後、昭和二三年春ころには、丸一新田の周囲に構築されていた堤防は決壊し、同地内に海水が流入する事態となったが、丸一新田内の土地所有者は、「入漁禁止」の立札を三本立て、いわゆる明認方法を施すなどして、同新田の排他的支配を継続していたし、現在でも、干潮時には同新田周囲の堤防跡や境界杭が明確に現われるから、丸一新田は他の海面と区別して認識が可能な状態にある。
ハ したがって、第一目録の各物件は、私権の客体となる土地というべきである。
<2> 第二目録七の物件について
イ 大日本帝国陸地測量部明治二三年測図(甲第一九五号証)、同大正七年測図(甲第一九六号証)、地理調査所昭和一五年修正測図(甲第一九七号証)、豊橋市南部農業協同組合大崎支所所蔵明治三六年実測大崎村全図の一部写真(甲第二〇六号証)、豊橋港内砂利採取船附近平面図(甲第二一五号証)等によれば、第二目録七の物件が古来より長松島と呼ばれる陸地(島)として存在していたことが明らかである。
ロ その後、第二目録七の物件は、隣地の海軍航空隊飛行場用地の埋立造成のため、土砂を提供したことにより、その原形が変化した。
ハ しかし、右原形の変化は、一時的にたまたま海没しただけのことであるから、それによって第二目録七の物件が私権の客体となる土地でなくなるものではない。
(2) 被控訴人らの主張
<1> 第一目録の各物件について
イ 第一目録の各物件は、従来海のままの状態であったにもかかわらず、地券台帳に登録されていたとの理由のみから、引き続き土地台帳にも地目を池沼として登録されたものであるところ、不動産登記簿に初めて登記手続をする場合、その登記する目的物件の特定は、登記法(明治一九年八月一三日法律第一号。乙第一一九号証)四〇条、登記法取扱規則(明治一九年一二月三日司法省訓令第三二号。乙第一二〇号証)九条により、地券台帳又は土地台帳に登録された事項によるとされていたので、第一目録の各物件については、当時の現況が海のままであったものの、土地台帳上の地目である「池沼」のまま不動産登記簿に記載されたのである。したがって、第一目録の各物件について各登記簿が調製され、その後の所有権移転登記が登載されていることをもって、ただちに右各物件が私権の客体となる土地(陸地)であると推認することはできない。また、丸一新田の開発経過をみると、伊藤又吉は丸一新田の開発を進めたものの失敗して撤退し、新田原養魚株式会社も大正一四年には解散し、その後、海水にさらされた丸一新田の再開発に乗り出した高瀬絹平らも、愛三新田寄りの部分で井戸を掘ったり、六反程度の土地に稲作を試みたが成功せず、昭和一九年ころ、新田開発を締めて撤退し、昭和二一年ころ以降は海水に覆われ、以来丸一新田は、海没地として具体的な支配利用がなされないまま放置され、昭和二八年の台風による災害の復旧対象にすらならなかったものである。したがって、結局丸一新田の埋立による開発は、失敗のまま放置されたものである。
さらに、大正七年測図(甲第一九六号証)には丸一新田の形状が記載されてはいるが、右地図ではいかなる工事がどの程度進捗しているのか全く不明であるうえ、大正八年再版の海図(乙第二五号証の一)及び昭和五年刊行の海図(乙第二五号証の二)によれば、丸一新田の地域は海水が最高高潮面に達した際に海面下に没していたことが認められるから、大正七年測図における丸一新田の記載によって丸一新田の埋立てが完了したものと推認することもできない。
のみならず、控訴人らは、前掲明治二三年勅令第二七六号官有地取扱規則及び同年内務省訓令第三六号官ニ属スル公有水面埋立ノ出願免許方をもって丸一新田の埋立ての根拠法令と主張するが、控訴人らが埋立をした事実自体を認めるべき証拠がない上、右内務省訓令二条及び四条によれば、埋立地は、それが事実上完成しただけでは足りず、成功の認可が与えられない限り、私権の客体となる土地(陸地)となる余地はないところ、丸一新田に関し、右成功の認可を証する書面や私有に帰すべき地区を明示した書面は存在しない。
そうすると、第一目録の各物件が大正一〇年八月三〇日までに陸地になったとは到底いうことができない。
加えて、そもそも公図(甲第二三九号証の一ないし三)や田原町土地宝典(甲第二三八号証の一ないし五)等によつても、第一目録の各物件が丸一新田内に位置する事実すら明らかでないから、これらの各物件が丸一新田内に存する事実さえ明確ではない。
ロ しかも、名古屋地方裁判所豊橋支部昭和二三年(ワ)第五五号土地立入禁止容認等請求事件の和解調書(甲第四四号証)によると、第一目録の各物件は、昭和二二年春ころには漁場として一般公衆の共同利用に供し得るような客観的状態であったものと認められ、他の海面と区別して認識が可能な状態ではなかったというべきである。
ハ したがって、第一目録の各物件は私権の客体となる土地ではない。
<2> 第二目録七の物件について
イ 昭和一五年修正測図(甲第一九七号証)には、控訴人らが第二目録七の物件と主張する長松島が、陸地(島)として記載されている。
ロ しかし、「大崎漁業協同組合史」(乙第七七号証)によると、大崎地籍に係る長松島は、「本島の北百間足らずに位置する東西に長くナギナタ形でその東端は本島より東にのび西端は南曲して老津長松島に続いて本島を抱いたような大きな島」であったようであるところ、三河湾及び伊良湖水道海図(乙第一二五号証の二)によれば、大正五年の海図刊行時点において、本島の北には長松島に該当する部分は存しないから、その当時に長松島は既に海と化していることが明らかである。
仮に、昭和一五年当時に長松島が島として存在していたとしても、昭和一八年までの測量海図(甲第二四七号証)では、長松島は既に島としての形態を失っており、また、昭和二一年七月撮影の航空写真(甲第二〇五号証)では、長松島は干潮時においてさえ海面下にあり、昭和二六年区画漁業権(のり)免許状況図(乙第四四号証の一)等によれば、遅くとも昭和二六年には長松島の部分に各種の漁業権が認められている。したがって、当該部分が海であったことは疑いがなく、昭和三三年修正測量図(甲第一九八号証)においても、長松島は陸地として記載されていない。
そして、最高高潮面下になった長松島の部分を他の海面と区別して認識するに足りる指標等は存在しなかった。
ハ したがって、第二目録七の物件も、所有権の客体となる土地ではない。」
第三証拠関係<省略>
第四当裁判所の判断
一 本件処分の取消しを求める法律上の利益ついて
1 控訴人ら(控訴人杉野紗喜子、同杉野雅宣、同杉野欽哉、同福井千里、同福井光一、同福井尚也、同宇都野よう、同宇都野弘及び同船井正義については、それぞれその被相続人)は、本件滅失登記がなされる以前に、本件係争地の所有権共有持分を取得した旨の登記を経由していた者(争いのない事実及び弁論の全趣旨)で、仮に控訴人ら主張のとおり本件係争地が所有権の客体たる土地であるとすれば、その適法な共有者と認められるべき者である。
そして、仮に被控訴人ら主張のとおり、控訴人らが本件係争地の共有持分権を放棄したのであれば、控訴人らの有していた共有持分は、他に共有者がいるときは当該共有者に帰属し(民法二五五条)、右のような共有者がいないときは国庫に帰属することになる(同法二三九条二項)。
ところで、土地の共有持分の放棄がされた場合、放棄により共有持分は一旦消滅するから、このような共有持分放棄による他の共有者又は国の持分権取得は、実体法上は原始取得であると解されるが、登記法上は、この場合には、いわゆる移転的承継取得の場合と同様、一定の原因により権利が一人の帰属を離れるのと同時に他人に帰属するという関係にあり、右のような状態を登記簿上に正確に表示することが不動産登記法の本来の法意に合致すると解すべきであるから、登記手続としては持分権放棄を登記原因として、持分権の放棄者から他の共有者又は国への持分権移転登記手続をすべきものと解するのが相当である(最高裁昭和四四年三月二七日第一小法廷判決・民集二三巻三号六一九頁参照)。したがって、共有持分権を放棄した者が、任意に右持分権移転登記手続をすることに応じない場合には、当該共有持分権を取得した他の共有者又は国は、その持分権移転登記手続に応ずべきことを訴求することができ、また、右放棄者又は他の共有者もしくは国は、そのような持分権の放棄による放棄者の持分権の消滅及び他の共有者又は国の持分権取得という物権変動について、右持分権移転登記手続を経由しない限り、これを第三者に対抗することができないことになる。
そうすると、仮に被控訴人らが主張するように、控訴人らが自ら持分権の放棄をしたものであると認め得る場合でも、右放棄後においてもなお、控訴人らは、そのような自らの意思で生じさせた物権変動を不動産登記簿上に正確に表示し、自己の共有持分権の消滅及び他の共有者又は国の当該共有持分権の取得につき対抗要件を具備することについて、不動産登記法によって個別に保護された権利利益を有するものということができる。したがって、一二号事件控訴人らも、自らその申請をしたとはいえ、本件滅失登記がなされたことによって右権利利益を害される関係にあるということができるから、控訴人らは本件処分の取消しを訴求する原告適格を有するものと解するのが相当である。
2 次に、控訴人らが訴えの利益を有するかどうかについて検討するに、土地滅失登記がなされた場合、登記用紙の土地の表示を朱抹し、原因欄に閉鎖の事由を、登記の日付欄に閉鎖の年月日をそれぞれ記載し、登記官が捺印して、登記用紙を閉鎖するという手続がとられる(不動産登記法八八条、同法施行細則六四条)が、その際、各権利の登記は抹消されないのであるから、土地滅失登記が取り消され、又は抹消されることにより、従前の権利の登記を含め、当然に滅失登記がなされる直前の登記と同一の状態に復することになる。したがって、本件処分を取り消すことによって、一旦覆滅した権利利益の侵害状態を解消し、右権利利益の回復を図ることができるのであるから、控訴人らは、本件処分の取消しを求める訴えの利益を有するものと解するのが相当である。
3 以上のとおり、控訴人らは、本件処分の取消しを求める法律上の利益を有する者であり、被控訴人らの本案前の主張は採用できない。
二 本件係争地が所有権の客体となる土地に該当するか否かについて
1 不動産登記法による登記の対象となる土地とは、私法上の所有権の客体となる物としての土地をいい、所有権の客体となる物は、人が社会生活において独占的・排他的に支配し利用することのできるものであることを要する。海水とその敷地(海床)とをもって構成される統一体としての海は、社会通念上、海水の表面が最高高潮面に達した時の水際線をもって陸地から区別されている。そして、海は、古来より自然のままで一般公衆の共同使用に供されてきたところのいわゆる公共用物であって、国の直接の公法的支配管理に服し、特定人による排他的支配の許されないものであるから、そのままの状態においては、所有権の客体たる土地に当たらないというべきである。
しかし、このような海について、一定の部分を他の海面から区別してこれに対する排他的支配を可能にした上で、その公用を廃止して私人の所有に帰属させることが不可能であるということはできず、そうするかどうかは立法政策の問題であって、このような措置をとった場合の当該区画部分は所有権の客体たる土地に当たると解することができる。現行法は、海について、海水に覆われたままの状態で一定範囲を区画しこれを私人の所有の帰属させるという制度を採用していないことが明らかであるが、過去において、国が海の一定範囲を区画してこれを私人の所有に帰属させたことがあったとしたならば、現行法が海をそのままの状態で私人の所有に帰属させるという法制度を採用していないからといって、その所有権客体性が当然に消滅するものではなく、当該区画部分は今日でも所有権の客体たる土地としての性格を保持しているものと解すべきである(最高裁昭和五五年(行ツ)第一四七号・昭和六一年一二月一六日第三小法廷判決・民集四〇巻七号一二三六頁参照)。
また、私有の陸地が自然現象により海没した場合についても、当該海没地の所有権が当然に消滅する旨の立法は現行法上存しないから、当該海没地は、人による支配利用が可能であり、かつ、他の海面と区別しての認識が可能である限り、所有権の客体たる土地としての性格を失わないものと解するのが相当である(右最高裁判決参照)。そして、この理は、私有の陸地の海没が自然現象以外のもの、たとえば人による掘削等により生じた場合においても等しく妥当するものというべきである。
2 そこで、これを本件についてみるに、本件各証拠(甲第四号証、第五号証、第七号証、第二〇五号証、乙第六号証の一ないし二二、第五八号証の一、二、第一二九号証)及び弁論の全趣旨によれば、本件処分当時から現在に至るまで、本件係争地が満潮時には海面下に没する干潟の一部で、昭和四四年九月二三日のほぼ満潮時における水深は〇・六メートルないし二・三メートルであったことが認められる。控訴人らは、本件処分時においても第一目録の各物件及び第二目録七の物件の一部は満潮時に最高高潮面を超える陸地であった旨主張するが、右各物件の一部というのが、どの物件のどの部分をいうのか全く特定していないから、そもそも主張自体失当であるのみならず、これを認めるに足りる証拠もない(なお、控訴人らは、当審においても、自白の撤回(二)にあたる右主張をなした口頭弁論終結時までは、たとえば、平成七年一〇月二〇日付け準備書面の第一の三3により、第一目録の各物件が昭和二一年七月より後に、堤防の決壊という自然現象により干潮時には姿を現わすものの、普段は海水に覆われる状態になってしまっている旨主張するなどしており、本件処分当時、本件係争地が満潮時に海面下の土地であることを認めていたというべきである。)。
したがって、前掲第二の五のうち1(二)の自白の撤回は、右自白が真実に反するものと認めることができず、その撤回は許されないから、本件係争地は本件処分当時において、その全部が海の状態であったことは当事者間に争いがないというべきである。してみると、本件係争地について、<1>かつては本件係争地は所有権の客体となりうる私有の陸地であったが、これが自然現象等により海没したものであって、当該海没地が人による支配が可能で、かつ他の海面と区別しての認識が可能である場合、又は、<2>国が過去において、本件係争地を他の海面から区別して区画し、これを私人の所有に帰属させた場合を除いては、本件係争地は、私人の所有権の対象となる土地には当たらないというべきである。
三 本件係争地は、かつて陸地(土地)であったか(自白の撤回の許否)。そうであったとしても、本件係争地は、陸地が海没して、本件処分当時、右二2<1>の例外的に所有権の対象となる土地であったか否かについて
1 第一目録の各物件について
(一) 控訴人らは、第一目録の各物件は丸一新田内の土地であり、同新田は遅くとも大正一〇年八月三〇日までには埋立てが成功して陸地となった旨主張しているから、以下において検討する。
争いのない事実及び本件各証拠(認定事実末尾に記載した証拠)によれば、丸一新田の埋立て、新田開発の経緯等について、次の事実を認めることができる。
(1) 堀田は、第一目録の各物件を含む前記八四三町七反歩につき、鍬下年季(地租免除期間)中の新開試作地として地券の下付を受けたものの、埋立てがされないまま、その権利が堀田から他へ転々譲渡された。
(争いのない事実)
(2) 明治二三年、大日本帝国陸地測量部が本件係争地付近を測量した時点では、後に丸一新田と称される部分は、海のままであった。
(甲一九四号証の一)
(3) 大正六年一二月一〇日、伊藤又吉らが新田の開発、魚類養殖販売を目的とする「田原養魚株式会社」(本店・渥美郡田原町大字田原字東大浜五七番地の二)を設立し、丸一新田の埋立て、開拓を始めた(なお「丸一新田」の名は、伊藤又吉経営の料理店の屋号を取ってそのように呼ばれるようになったと伝えられている。)。同月二五日付けの新朝報は、「田原養魚会社」の見出しの下に、渥美郡田原町伊藤又吉ほか五名の発起にて、資本金五万円をもって、田原町大字浦の海面約三〇町歩に工事を施し、養魚及び新田経営をなすべくその筋に願い出、創立事務所を田原町に設立した旨の記事を掲載して報道した。
その後、大正八年一二月八日、田原養魚株式会社の商号が「土地開拓株式会社」に変更されるとともに、同月一四日、これとは別に新たに、魚類養殖販売その他これに関連する一切の事業を目的とする新田原養魚株式会社が設立された。
そして、大正七年一月八日から大正一〇年八月三〇日までの間に、土地開拓株式会社(田原養魚株式会社)は、分筆前の第一目録の各物件を含む一体の土地を取得し、これらを分筆等したうえ、第一目録の各物件を新田原養魚株式会社に譲渡し、所有権移転登記手続をした。
しかし、伊藤又吉らによる丸一新田の埋立て、新田開発は資金不足のため成功せず、新田原養魚株式会社は大正一四年三月五日に解散し、同人は右事業から撤退した。
(甲第五七号証ないし第六四号証、第二二五号証、第二二六号証、第二二八号証、第二二九号証の一、二、第二三〇号証の一ないし四、第二三一号証、第二三二号証、第二三三号証の一ないし三、第二三四号証ないし第二三六号証、第二三七号証の一、二、当審証人高瀬のぶ)
(4) 昭和一〇年ころからは、土地開拓株式会社の取締役となった高瀬絹平らが伊藤又吉に代わって丸一新田の新田開発を手がけるようになったが、高瀬絹平の妻高瀬のぶも、伊藤又吉らを中心とする土地開拓株式会社ないし新田原養魚株式会社による丸一新田の埋立て、開発は資金不足から失敗に終わったとそのころ聞いており、高瀬夫妻が丸一新田に入植した昭和一一年ころには、丸一新田は、全体が広大な池のような状態で、荒れており、池の境があるだけで、川葦が繁茂していた。堤防は、外側は石垣にコンクリートを詰めるなどしてあったものの、その内側には資金不足から砂利が入れてあったため、コンクリートの部分が劣化し、詰めてある砂利が流出し、穴が開いて中から更に砂利が流れ出し、満潮時には丸一新田の中に塩水が入ってくるような状態になっていた。
高瀬絹平らは、全体の土地二三町歩のうち一三町歩を水田にするため、川葦を刈り畦道を作って田を区画したが、水田部分に客土まではしなかった。これは単に水田の予定地を造ったということにすぎず、実際に丸一新田において、稲作をしたのは、西隣りの愛三新田寄りの部分に他の人が耕作した分を含めて六反程度であった。そして、真水を得るため井戸を何本か掘ったが、同地区ではなかなか真水が出ず、塩水が強すぎて収穫は殆ど得られず、高瀬夫妻らが丸一新田から撤退する直前の昭和一七年及び一八年に僅かな米の収穫があったに過ぎなかった。
高瀬夫妻や新田内の池を管理していた者らは、丸一新田内に建物を建築し、同建物に居住していた。しかし、丸一新田の堤防は弱く、絶えず修復をする必要があったが、これを修復するのに多額の費用がかかり、また、修復箇所が多くて次第に修復が追いつかなくなり、いつ堤防が決壊して新田内に海水が入ってくるか分からない状態になり、安心して居住できなくなったことから、昭和一九年ころ、高瀬夫妻らは丸一新田の開発を諦め、丸一新田から撤退した。
(甲第二二〇号証の一、二、第二二四号証、第二二七号証、当審証人高瀬のぶ)
(5) その後、昭和二一年ころ以降は、丸一新田の堤防が決壊し、堤防も含め、新田全体が、干潮時には姿を現すものの、満潮時にはその全部が海水に覆われる状態になった。
(弁論の全趣旨)
(二) 右認定の事実によれば、丸一新田の埋立ては結局一度も成功しておらず、これが陸地となったことはないものと認めるのが相当である。
これに反し、大日本帝国陸地測量部大正七年測図(甲第一九六号証)には、丸一新田の周囲に堤防が築かれているような記載があり、地理調査所昭和一五年修正測図(甲第一九七号証)には、さらに丸一新田の三分の二程度が水田であるかのような記載があって、丸一新田は、一時的には陸地の様相を呈したようにも窺える。しかし、右(一)(3)(4)で認定したとおりの事実経過に照らすと、埋立てが成功し、いずれかの時期に安定的に陸地の状態が継続する状態になったものと認めることはできない。したがって、前記各測量図の記載のみからでは埋立工事が完成、成功したことまで認定することはできないというべきである。
また、前記(一)(3)に掲記した各証拠によれば、大正一〇年八月三〇日までに第一目録の各物件を含む丸一新田内の土地について、土地開拓株式会社に所有権移転登記手続がなされ、その後分筆登記手続を経て、そのうちの一部について新田原養魚株式会社へ所有権移転登記手続がなされたことが認められるが、第一目録の各物件には、地券が下付され、従前地券台帳に当然に登録されていたことから、地券台帳に基づき作成された土地台帳にも地目を池沼として登録されたものにすぎないと認められる。そして、不動産登記簿に初めて登記手続をする場合、その登記する目的物件の特定は、登記法四〇条、登記法取扱規則(明治一九年一二月三日司法省訓令第三二号)九条により、地券台帳又は土地台帳に登録された事項によるものとされていたから、第一目録の各物件については、土地台帳の記載そのままに地目を池沼として不動産登記簿に記載されたと認めるのが相当である。したがって、当時の不動産登記簿に第一目録の各物件に関する分筆登記や所有権移転登記が記載されているからといって、丸一新田の埋立てが完成し、右各物件が私権の客体となる陸地になったものと推認することはできない。
(三) 控訴人らは、伊藤又吉らによる丸一新田の埋立ては、明治二三年勅令第二七六号官有地取扱規則及び同年内務省訓令第三六号官ニ属スル公有水面埋立ノ出願免許方に基づき、大正一〇年八月三〇日までにはこれが成功のうちに完了したとも主張する。
しかし、埋立てが成功し、完了したと認められないことは前示のとおりであり、そもそも、伊藤又吉らが右勅令及び内務省訓令により埋立ての免許を得たことを認め得る証拠はない。のみならず、前記内務省訓令によれば、所有権は埋立成功後に付与されるものとされているから(同訓令四条)、埋立ては、それが事実上完成しただけでは足りず、成功の認可が与えられない限り、私権の客体となる土地(陸地)とならないものというべきである。しかし、丸一新田に関し、土地開拓株式会社ないし新田原養魚株式会社その他の者に対して、内務大臣から成功の認可がなされたことを認めるに足りる証拠は全証拠を通じても存しない。
さらに、大正一一年四月一〇日、公有水面埋立法が施行されたが、同法によっても、埋立ては事実上完成したのみでは足りず、地方長官に対し竣功認可を申請し、竣功認可の日に埋立地の所有権を取得する(同法二二条、二四条)ことになっているところ、丸一新田に関し、土地開拓株式会社ないし高瀬絹平あるいはその他の者に対して、右施行日以降、竣功認可があったことを認めるに足りる証拠も全くない。
したがって、いずれの点よりしても、丸一新田が私権の客体となる陸地になったことがあるものと認めることはできない。
(四) 結局、以上の説示に前記二の説示及び原判決を引用してする争いのない事実2、3を併せると、仮に第一目録の各物件が丸一新田内にあるものとしても、丸一新田に相当する部分の土地は古来より大正年間に伊藤又吉らが埋立てに着手するまでの間は一貫して海の状態であり、かつ、その後においても、埋立てが成功してこれらの土地が私権の客体となる土地(陸地)になったことはないものというべきである。したがって、本件係争地のうち第一目録の各物件が、古来より海のままの状態であることを認める旨の控訴人らの自白は、真実に反するものではないから、前掲第二の五のうち1(一)による自白の撤回は許されない。
2 第二目録七の物件について
(一) 控訴人らは、第二目録七の物件が古来より長松島と呼ばれる陸地(島)として存在していた旨主張するので、以下において、長松島が陸地として存在していたか否か、第二目録七の物件が右長松島に存在するか否か、自白の撤回は許されるかについて検討する。
本件各証拠(認定事実末尾に摘示した証拠)によれば、次の事実を認めることができる。
(1) 寛文絵地図及び鈴川矩治郎らの手控え等からすると、長松島は、大崎の本島の北百間足らずに位置する東西に長い長刀形の島で、その東端は本島より東に延び、西端は南曲して老津長松島に続いて本島を抱いたような形の大きな島であり、明治二一年にはじまった神野新田築堤前の長松島は、本島よりも高く大きく、田原湾の一番北側にあって、自然の防波堤になっていた。
(甲第一号証、第二〇七号証、乙第七七号証)
(2) 明治七年七月四日、堀田が新開試作地として地券の下付を受けた八四三町七反歩中には、長松島二〇町歩が含まれており、その部分は明治七年から同一三年までの鍬下年季(地租免除期間)が認められ、明治一二年一一月、堀田は当時の愛知県令に対し、さらに一〇年の鍬下年季の継続願を提出した。
(甲第二七号証、第二八号証の一、二)
(3) 明治二一年から始まった毛利新田(後の神野新田)の築堤に際し、長松島から所要土砂を採掘し、毎日数十数百の小船が採掘された土砂を運搬し、約一年の間に島の過半部分が採掘され尽くした。ところが、明治二二年三月二八日、大崎村人民総代高柳絹太郎ほか一三名が当時の愛知県知事に対し、「本村先字長松島保存願」を提出し、長松島をこれ以上採掘し、同島が全形を失う場合には、防波堤の役割を果たす地がなく、直接大崎村に高波が押し寄せて被害を蒙るおそれがあり、また、村民が必要とする採藻蜊場漁場を失うことになるとして、採掘の中止を申請し、同年六月一〇日に右申請は承認された。
(乙第七七号証)
(4) 第二目録七の物件については、明治二二年ころ以降に調製された土地台帳上には字「長松嶌」、地番「壱番」、地目「原野」として記載され、明治三二年以降に調製された不動産登記簿に、所在「豊橋市大崎町字長松島」、地番「壱番」、地目「原野」、地積「参町五反七畝壱一五歩」として保存登記がなされた。
(甲第八七号証、第九四号証)
(5) 大日本帝国陸地測量部明治二三年測図、同大正七年測図、地理調査所昭和一五年修正測図等には、控訴人らの主張する長松島の記載がある。しかし、長松島が記載された前記各測量図が、満潮時の最高高潮面によって海と陸とを区別したものであるかどうかは、明らかではない。しかも、その位置は、本島の北ではなく西に位置しており、その形状も右(1)に記載されたものとは異なったものとなっている。その理由は、右(3)の長松島の土砂採掘によって、本島よりも東側に伸びた島の過半部分が採掘され、本島西の部分のみが残ってこれが測量図等に記載されたためではないかと推認される。
(甲第一九五号証ないし第一九七号証)
(6) 三河湾及び伊良湖水道海図では、大正五年の海図刊行時点において、本島の北には長松島に該当する島は存在しないが、本島の西に「長島」と称する島の記載があり、右(5)の各測量図による長松島の位置からすると、右「長島」は長松島ではないかと考えられる。
(乙第一二五号証の二)
(7) その後、長松島から第二次世界大戦中海軍航空隊飛行場用地の埋立造成のために大量の土砂が削掘、搬出されたことにより、その原形が変化し、昭和一八年までの測量海図では、長松島は既に島としての形態を失い、飛行場の西に「長島」との記載があるものの、右(6)の「長島」よりも遥かに小さく表示されているにすぎない。
(甲第二四七号証、弁論の全趣旨)
(8) 昭和二一年七月撮影の航空写真では、長松島(少なくとも大崎町内の長松島)は干潮時においてさえ海面下にあり、また、昭和二六年区画漁業権(のり)免許状況図等によれば、昭和二六年にはそれまでの(6)(7)の長松島の部分には各種の漁業権が認められ、更に地理調査所作成の昭和三三年修正測量図では長松島は陸地として記載されておらず、当該部分が海であったことが明らかである。
(甲第一九八号証、第二〇五号証、乙第四四号証の一)
(二) 右認定事実からすると、かつては長松島と呼ばれた島が存在していたものの、その形状は、明治二二年ころ行われた神野新田の築堤のための土砂採掘及び昭和一八年ころまで行われた旧海軍飛行場用地の埋立造成のための土砂採掘によって大きく変化し、面積も著しく縮小したことが認められる。さらに、第二目録七の物件は、その登記簿上の表示のみからすると、長松島内に所在していたとは一応考えられるが、それが島内のどの位置に存在していたのか特定は全くできない。
そうすると、本件係争地のうち第二目録七の物件が、以前から海のままの状態であることを認める旨の控訴人らの自白は、真実に反するものとはいえないから、その撤回は許されない。
したがって、第二目録七の物件について、これが海面下の土地であることについては当事者間で争いがないこととなる。
(三) なお、念のため付言すると、第二目録七の物件が所在すると思われる長松島は、前記(一)の(3)、(5)ないし(8)のように、遅くとも昭和二一年七月には、掘削や自然現象によりすべて海面下の土地になってしまったのであるが、その時点において、同物件の位置を他の海面と区別して、認識できるような指標等は存在せず、同物件を他の海面と区別して認識することができなかったものであるから、この点からも、同物件は本件処分時においては所有権の客体となるような土地であったということはできない。
3 第二物件目録一ないし六の土地について
一一号事件控訴人らは、右土地(大崎町字島間、同字平島)に対しなされた本件滅失登記処分の取消を求めているが、右土地は長松島の一部ではない上、右土地が古来より海面下の土地であったことは当事者間に争いがないところ、その後これらの土地が陸地となったことについて同控訴人らは全く主張、立証をしない。
四 本件係争地が、地券の下付等により所有権の客体たる土地になり、本件処分当時、前記二2<2>の例外的に所有権の対象となる土地であったか否かについて
そこで次に、国が本件地券の下付等により、本件係争地を他の海面から区別して区画し私人の所有に帰属させたことがあったかどうかについて検討する。
1 本件各証拠(甲第二五号証、甲第二七号証、第二八号証の一、二)によれば、堀田は、明治七年七月二日、当時の愛知県令鷲尾隆聚に対し、徳川幕府から新田開発許可を受けていることを理由に、田原湾内の大崎村ほか七か村地先の海面の新開大縄反別一三七八町歩のうち、本件係争地を含む新開反別八四三町七反歩につき、地券の下付を願い出て、同月四日、鍬下年季(地租免除期間)中の新開試作地として本件地券の下付を受けたことが認められる。
なお、控訴人らは、原審においては右事実を争わず、したがって、原判決にも争いのない事実として記載されているが、当審において、この陳述を撤回し、本件係争地のうち第二目録の各物件について地券が下付されたのは明治六年であると主張するに至った。控訴人らが右自白撤回の根拠とする甲第一八四号証の二(渥美郡大崎村の捕魚採藻來由取調書四丁表の海面區劃漁業採藻場箇所限り調)及び乙第七七号証(大崎漁業協同組合史二四頁)にはこれに沿うかのような記載もある(乙第七七号証の当該部分は、甲第一八四号証の二の当該部分を要約して転記したものと認められるから、この点についての証拠価値は、甲第一八四号証について検討すれば足りる。)。しかしながら、甲第一八四号証の二の明治六年という本件地券下付の時期に関する記載は、明治一二年ころ大崎村が当時の愛知県令に対し、海面拝借願に関連して差し出した書面中に述べられているに過ぎないものであるのに対し、前記甲二七号証(地券願)及び第二八号証の一、二(新開場鍬下年期願)は、いずれも明治七年の堀田作成名義の地券下付に関する直接的な書面であって、下付の時期に関する記載内容も当然信憑性が高いというべきである。したがって、本件地券が下付された時期については、前記甲第一八四号証の一、二及び乙第七七号証は採用することができず、第二目録の各物件について地券の下付がされたのが明治七年七月四日である旨の陳述(自白)は真実に反するものではないというべきであるから、その撤回は許されず、堀田は明治七年七月二日に地券の下付を願い出て、同月四日に本件地券の下付を受けたことについては当事者間において争いがないものというべきである。
2 そこで、本件地券の効力ないし性格についてみるに、前記三の説示及び引用にかかる原判決摘示の争いのない事実2、3に、当時の地券発行の根拠となる明治五年二月二四日大蔵省達第二五号、同年七月四日大蔵省達第八三号、同年九月四日大蔵省達第一二六号、明治六年三月二五日太政官布告第一一四号、同年七月二八日太政官布告第二七二号を併せると、本件において堀田に対し下付された鍬下年季中の新開試作地としての本件地券は、堀田に開発権があることを証明する文書であって土地を払い下げるための文書、あるいは権利設定文書ではないというべきである(前掲最高裁昭和六一年一二月一六日第三小法廷判決参照)。
そうすると、地券の下付があったからといって、それによって国が本件係争地を堀田の所有に帰属させたものということはできないから、右地券の下付により本件係争地が所有権の客体たる土地としての性格を取得したものということはできない。
3 ところで、明治四年大蔵省達は、海面下の地盤について入札払下げを、明治八年内務省達は、同地盤について無償下渡しを認めていたが、明治四年大蔵省達は、明治六年七月二〇日太政官布告第二五七号により廃止され、明治八年内務省達は明治八年二月七日に発布されたものであったから、堀田が本件係争地の地券の下付を受けた明治七年七月当時には、これらの達に基づき埋立てをしないまま海面下の土地の所有権を取得することはできなかったというべきである。
4 なお、控訴人らは、たとえ本件地券が開発権の証明文書であるとしても、国がその処分権限に基づいてした地券の下付という行政処分が取り消されない以上、堀田を本件係争地の所有者と認めた右処分の効力は適法かつ有効に存続している旨主張するが、前記のとおり、本件地券の下付に関して本件係争地について堀田に対し所有権が付与されたものではないから、控訴人らの右主張は前提を欠き、失当というべきである。
5 右のとおり、国が地券の下付等により、本件係争地を他の海面から区別して区画し、私人の所有に帰属させたことがあったとは認められないから、これにより本件係争地が私人の所有の対象となる土地(陸地)になったことがあったとも認められない。
五 まとめ
1 以上のとおり、本件係争地は、本件処分時においては、すべて海面下の土地であることは当事者間で争いがないところ、国が過去において、本件係争地を他の海面から区別して区画し私人の所有に帰属させたことがあるとも、所有権の客体と認められる土地(陸地)であったものが自然現象等により海没した土地であるとも認められないから、いずれも本件処分当時私人の所有の対象となる土地(陸地)でなかったというべきである。
2 そうすると、本件滅失登記処分は、本件係争地が登記されるべき土地として実在しないという実体的な法律状態に符合した処分であるということができるから、これを違法ということはできない。なお、本件滅失登記処分は、「海没」を登記原因としてなされているが、これも具体的な法律状態に符合するものである以上、登記原因における瑕疵をもって、本件滅失登記処分又は右登記の抹消登記手続申請却下処分の取消原因とすることはできない。
よって、本件処分の取消しを求める控訴人らの請求はいずれも理由がない。
第五結論
以上の次第で、控訴人らの請求をいずれも棄却した原判決は相当であり、本件控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用について行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法九五条、八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 水野祐一 岩田好二 山田貞夫)